
どうも中川です。
ドイツサッカー事業をスタートしました。
サッカー遠征のみを扱おうと思っていたのですが、やはり自分が目をつけた選手をプロにさせたいと強く思い、選手受け入れも始めました。
タイトル釣りかよと思われるかもしれませんが、本当に思ってます。
私の育てた多くの選手を4部へ、そして3部へ!そしてJリーグへ
自分がこうなりたい・こうやりたいと口に出して公言することは難しいですよね。
なぜなら、もしできなかったときの"周りからの批判や目"が怖いからです。
でも、公言しないとチャンスは生まれないし、その夢に向かう原動力にも言わなかった時と比べても雲泥の差が生まれます。
多くの選手が成長して、プロになる姿を見るのが今の夢です!
僕もあなたと同じ、無名でドイツに来ました。
自分を変えたくて、成長したくて日本を飛び出ました。
うまくいかなかったことも、たくさん経験し、結果を地道に積み上げてプロになりました。
誰もが無理と思っていたドイツサッカー留学の先駆者として、ここまでやってこれてます。
決して日本で有名で、すごい誇れるキャリアがあってドイツに来たわけではありません。
日本でキャリアがあれば、そもそもプロになれてますから。
だからこそ、今置かれている状況に悲観する必要はないんです。
ただ、日本で通用してなのいにドイツ(海外)なら簡単にプロになれると思っている方がいますが、そんな甘い世界ではありません。
SNSでよくプロになりましたという投稿が今ままでよりも身近に見れることになったので、簡単そうに見えますが、見えないだけで、夢半ばで諦めた無数の選手の上にその夢を叶えた選手がいるということを忘れないでください。
チャンスは確実にひと昔よりも、高くなっているのは間違いないです。
それは多くの先駆者たちやブンデスリーガで活躍する日本人選手が日本人の印象を高めてきたからです。
今は、数多くのエージェントがドイツにはあります。
大手から個人エージェントまで。
契約実績はあるものの4部へステップアップした選手は数少ないのも事実です。
私は、無名の選手を育て、ステップアップさせ4部に送り込みます。
- 反骨芯がある、礼儀正しい中に生意気な選手
- とりあえずポジティブな性格(なんとかなる精神)
- 絶対にプロになってやるという野心を強く感じる選手
- 攻撃的MFまたはFW
もし興味ある方は、お問合せからご連絡ください。
ドイツサッカー遠征はこちらから
【ご提案できること】
・個人レッスンや選手のアプローチ(ライフキネティック等)
→ライフキネティック公認トレーナーなので、空いた時間はレッスンしたり個人練習で技術・メンタル面の強化を図ります。
・ドイツに来て一番きついのが料理という声が多い。
→コックの私が、ドイツの食材を使って日本料理を作れるのかをレクチャーしていきます。
・一社会人としての振る舞いを叩き込みます。どこに出しても誇れる人材の育成
→若かったあの頃、ここまで導いてくれた大人がいました。
その方がいなければ、ここまでこれていなかったのかもしれません。
セカンドキャリアも踏まえて、今だけでなく、未来も考える必要があります。
そこの部分を考えてしっかりとアプローチをしていきます。
・1年目はシーズンの契約料金ですが、2年目以降は成果報酬型。
→ 1シーズン目は固定の契約料金ですが、2年目以降は必要な時に料金を頂いてサポートする形です。
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ドイツサッカー留学を簡単に振り返ります。
少し長いですが、一読していただけるとより、私がどんな人なのか見えてくるかもしれません。
日本では中学まで日本代表だったが、高校2年生までベンチ外でどん底を味わう。
未来の見えない腐った高校生活を送る。
高校3年にもう一度頑張ると決めて、ベンチ入り・スタメンではないが後半20分の途中出場まで登り詰めた。
当時、ブンデスリーグで日本人が大活躍し、おれも成功する!と強い気持ちで高3の夏過ぎにはドイツに行くと決めました。高3の冬休みを利用して1ヶ月のトライアウト期間で1回目の渡独、チームは決まらなかったが確かな手応えと現地のコーディネーターに気に入られもう一度ドイツに行くことを決意。
大学の入学が決まっていたので、入学後そのまま渡独して後日休学した。
日本でプロになれなかったのはそもそもの実力と運もなかった。
いきなり無名の18歳の日本人がドイツの4部に行けるはずはなかった。
4部でもやれている気はしていたが、背も小さく、まだ若いということでU19ならというチームが多かった。
1年下積みだと思い、U19でプレーすることを決意。しかし入ったチームは最下位で思うような試合運びができない厳しい状況だった。
その中でも地道に数字だけを追いかけて降格のチームで2桁の得点を取った。
アシストと得点合わせて2桁いけばそのチームのトップ昇格(ブンデスリーグ2部)があると言われていた。
結果は超えたのにも関わらず昇格できなかった。
その後ブンデスリーグ1部のニュルンベルクのU23(4部)から声がかかった。
練習参加し、好印象で契約はほぼ確実言われ、そのまま日本に一時帰国しドイツに帰ってきた。
監督が変わったからもう一度練習に参加してほしいと言われた。
1週間程度参加し、最終的にいらないと言われた。
滞在ビザが残り1週間しかない極限の状態に追い込まれた。
とりあえず、どこでもいいから4部と契約したいと代理人に伝えた。
U19の時の監督が、4部の監督になったから、そこなら取ってくれると言われ、とりあえず練習参加した。
もちろん、もともと気に入られていたので契約を勝ち取ったが、思い描いていたチームとはかけ離れていたので、その時ものすごく苛立ったのも覚えている。
U19で10点以上とった選手は少なからずほとんどが3部以上でプレーしている。
その中で契約できたのは、毎年降格争いをし、5部と4部を行き来するお金もないチーム。
早く結果を出して、移籍したかったのでその旨を伝え、移籍金はかからないようにという契約のもと代理人にお願いして契約した。
一応、少ないながらもプロ契約でお金をもらって生活はできた。
最下位ながらも前期で8得点を決め、得点ランキングも10位に入り、3部のチームからオファーが入った。
ここで、移籍金が発生しないという契約だったのにも関わらず、発生することが発覚。
結果を出している私を放出したくないので相手側提示した金額のはるか上の金額を提示。
当たり前だが、この移籍は破談となった。
この時19歳。
せっかくここまできたのに、全てを失った気分になった。
19歳で3部に行った選手はいない。これでいけばドイツ留学生初の快挙となると同時にリオオリンピック世代の代表に呼ばれていたかもしれない。
やはり後期のシーズンはメンタルを正常に保つことが本当に難しかった。弱小チームなので、失点も多くボールもこない。
支配率は毎回2対8でほとんど相手がボールを持っている状況だ。
あの8点がなぜ凄いのか。そして3部からオファーが来たのかというと、最下位のチームで結果を出していたことはもちろん。1試合でチャンスが2本あればいいところ、1本しかシュート打てない試合もあった。
その少ないチャンスで8点をとったから、評価されたのだ。
シーズンを終えて、どこからもオファーは来なかった。
一度リフレッシュをしに日本に一時帰国した。
その帰国時に1本の連絡が代理人に入った。あの名門のシャルケ04のU23からオファーが届いた。
ようやく報われたんだと思った。
すぐに契約し、日本のニュースにもなった。
胸を高鳴らせ、シャルケのチーム練習に合流した。
始まってすぐ、キャンプがあった。
緊張もあったのだが、張り切る気持ちが強すぎてオーバーワークをしてしまった。
キャンプ時にかなり太ももに違和感がある状態で1週間のハード3部練習を耐えた。
痛みはある中でも練習はして、初戦は痛み止めを飲んでベンチに入った。
痛みがずっと消えないので検査をしたら、肉離れが発覚。
よくよく検査をすると股関節のネットが緩い(恥骨結合炎)が原因で足に問題が起きているという。
そのため、股関節にネットを入れて補強する手術をした。
入団して、結果を出してトップチームで活躍する未来を想像して来たのに、実際は無理して怪我して手術して棒に振ってしまった。
復帰したのは後期シーズンから、チームは降格圏内にいたため、雰囲気も悪かった。
アウエー戦の前に、ホテルで朝食をとってから会場に向かうのだが、なぜか19名呼ばれている。
私が復帰する前は18人しか呼ばれていなかった。
何を言いたいかわかるでしょう。
そう。私は19人目なんです。
他のサブ面は呼ばれないのだが、私は毎回呼んで、あたかも可能性ありますよ、みたいな雰囲気出して結局一人だけ帰らされることが1・2ヶ月ほどありました。
最初は期待していたのですが、徐々に期待することすらなくなり苛立ちと悲しみ・恥ずかしさだけが残りました。
コーチには毎回、本当に申し訳ないといってくれていたが、それでも帰りは泣きながら自転車を漕いで家まで帰っていた。
小さな街なので、シャルケの服を着て自転車で漕いでたら【ウッチー】と声をかけてきてくれていた。
ウッチーが自転車(マウンテンバイクみたいなやつ)で練習行くわけないだろと思ってましたが、最初はNeinと言いながら走ってましたが、めんどくさくなりスルーしてました。
シーズンは結果も出せず、契約が1年にしていたので更新なしでそのまま契約解除になった。
また、一からチーム探し。
結果を出していない分、オファーも来なければ、練習参加の声もない。
また空白の時間が生まれた。
1ヶ月に1個あればいいくらい。その間の準備と高いメンタルを持ち続けることが本当に辛かった。
給料のないからお金もなくなる。
2つ練習参加して3つ目に契約が決まった。8月ごろだったと思う。
4部ではあったが、給料は少ないので、チームのスポンサーの会社で働く契約で締結。
VWの新車の運送の仕事場で働いた。
私の仕事は、新車がきて、シールやカバーを剥がし、シールの後を綺麗に液で拭き取り、ウォッシャー液をいれ、ナンバープレートの縁の部分を留める。そして、ラジオをセッティングして駐車する仕事だ。
ちなみにその当時私は無免許でした。
敷地内なので、その部分はグレーだが、そこで車の運転を教えてくれたことは後々現地で免許を取る際にスムーズに運転することができ、楽々と免許が取れた。
ちょっと話はそれたが、入団してビザが届かないので、その間は1軍の試合に出れず、2軍の7部で戦うことになった。
7位だったチームが、私が入った1ヶ月で1位にまで押し上げた。
4試合6-7得点5アシストほどはしている。
ビザがおり、ようやく1軍入りだとなった矢先、肘が脱臼。
人生のケガの中で一番痛かったのを覚えてます。
大体の痛みは耐えられたのですが、これは意識が飛ぶほど痛かったですね。
麻酔を打たれ、救急車で運ばれ、気づいたら診察台の上。
起きた時に手術終わったかと思ったら、この当時、チーム入ったけどビザが降りていない微妙な感じで、保険はどこだとかなんやらで、その保険を聞くためだけに起こされたのだった。
確認が取れるまでは検査ができないという。知らないから早くやってくれとカタコトにドイツ語でぼんやりした頭で言い続けました。
奇跡的に折れてはなくて、綺麗に外れただけだったので、手術は避けられましたが、全身麻酔で起きたらベットの上でした。
また出遅れた。リハビリで前期シーズンを棒に振ったが、冬の準備期間で結果を出し、後期シーズン1試合目からスタメンで使ってくれた。
評価もかなり良く、スタメン確実かなと思っていたが、その試合でかかとを踏まれ、血だらけなのとその傷口が痛むので治るまではサッカーできる状態ではなかったので、また戦線離脱。
完治してから、復帰した試合で負けてしまった。
その原因が私にあると監督が言ってきた。
私はトップ下だったのだが、相手のセンターバックへのプレスが甘かったからというのが原因だったのだという。
私の後ろに9人も選手いるし、相手側陣地で前半早々にハイプレスをかける人いないでしょう!
真ん中を簡単に抜かれた味方にも非があると思うのだが、火の矢は全て私にきた。
その試合から、ずっとベンチまたはベンチ外。
また、2軍の試合に行くことに。
1回、2軍のアウエーと1軍のホーム戦が重なった時に、2軍のチーム移動が始まる直前に1軍の選手が欠場のために"ゆうき"来いと言われ、急遽1軍のベンチに入った。
ずっと干されていたし、人数合わせでメンバー入りかなと思っていた。
前半に味方の選手のプレーがあまり良くなかった。その時、いきなり"ゆうき"行くぞ!と言われ、「え、今!?」となったのを覚えてます。
普通、ベンチ入りした選手を使うのが当たり前ですよね。なぜ2軍からきた選手を後半スタートから入れますか?
だったら最初からベンチ入りさせておけと思ったのが正直な感想です。
出場機会もほとんど得られないまま、シーズンが終わる1ヶ月前ほどに、練習中に膝が「ボキッ」と鳴り響きました。
脱臼ほどの痛みではなかったけど痛みで叫びました。
靭帯は大丈夫そうということとシーズンが終わるので、一旦様子を見る形でシーズンを終えた。
その後、何度も膝崩れをするので色々調べてみたものの、チームを決める大事な時期だったこともあり精密検査をしませんでした。
今考えれば、ちゃんとしておけばよかったなと思ってます。
おそらく、半月板損傷はしていたんだと思います。
その後、痛みはあったものの元プロが参加するチームを決めるためのキャンプがあるのでそれに参加しました。
これで決まれば問題ないと思い、無理して参加しました。
膝の不安と痛みで、やりきれていないプレーも多く、特出した高評価を得られるプレーではなかった。
あとは練習参加の連絡を待つだけの日々。
4部の何チームかが興味をしてしてくれていたようだが、膝の調子が悪く、この膝ではおそらく無理だろうということで完全復活するまでは見送ることにした。
できる準備を最大限しようと、自主練は欠かさずしていたのだが、友人としてた自主練の1体1で「ボキッ」またあの音が聞こえた。
この時、もう終わったと思いました。
辛いサッカー人生だったなと、これでもう痛くて苦しい思いはしなくていいんだと思ったのを覚えています。
病院で検査をしたが、わからないということでした。
膝崩れがひどいので、他の整形外科の専門医にみてもらいました。
これは完全に前十字靭帯をやっていると言われ、そのままレントゲンと精密検査。
結果は、前十字靭帯断裂・内側・半月板損傷のよくあるパターンですよ!
セカンドオピニオンは本当に大切なんだなと実感した日でした。
また全身麻酔をして手術。
ドイツの手術って早く出されるんです。
通常日本で前十字靭帯をやると最低でも2週間くらいは入院するかと思います。
私は3日で出されました。
家で、リハビリなどを自分でするのですが、痛みはやばいし、助けてくれる人もいないし。
とりあえず大変でした。
膝の縫った場所を2週間程度で抜糸をしないといけなかったのですが、病院に行く術がなかったので、自力で行けるくらいまで1ヶ月ほど待ちました。
そしたら、完全に糸が皮膚とくっついてしまって、取るのが大変でした。
最終的にペンチで無理くり引っこ抜いた感じです。
その後もリハビリをして、これはちゃんとしたリハビリセンターに行きました。
しかしながら、治ったはずなのにどんなにリハビリをしても痛みが取れることはありませんでした。
とりあえず、5部のチームがケガ持ちの私をリハビリがてらとってくれるということで、契約しました。
筋トレもして、痛みに効くセラピーや治療法を試しましたが、全く効果はありませんでした。
ついには階段を上がるのが痛い、日常生活に支障が出るほどでした。
チーム練習でキーパーの手伝いをしていた時に軽くシュートした時に「ガコッ」と音がして何かがハマった音がしました。
それから、階段が登れるようになって、また階段が登れなくなる生活を送るのは厳しい。
何より、もうお金がない。
親は支援してくれていたが、これ以上は頼めないと思い、ここでサッカーを辞める決断をしました。
その後はビザの締切があって、時間がなかったので、仕事をするか大学に入るかのどちらかしかドイツに入れる手段はありませんでした。
どちらを取るにも語学力が必須で、必死に勉強しました。
大学は語学的に厳しく、お金が今すぐ必要だったので、就活一本で行きました。
語学の試験は資格としては合格しませんでしたが、約3ヶ月でA1程度からB2のレベルまでは上げました。
ゲーテのテストで合計点は合格ラインに到達したのですが、スピーキングで2.5点足りず不合格だったので、資格はないけど一応B2程度はありますといって面接は受けました。
無事就職して、紆余曲折あり、今に至ります。
そして、また私自身も諦めていたサッカーをもう一度始めます。
夢は追える時に追えばいいんです。
環境によって夢を諦めざるおえない時が来ます。
それは私も同じでした。ですが、その野心の火は小さくてもいいから燃やし続けてください。
何歳でもいい。挑戦できる環境ができた時、また小さな種火にゆっくりと大きな火になるように薪を入れるだけ。
急に急いでガソリンを入れると一瞬で燃え上がるけど、長くは燃えない。
ゆっくりだけど地道に大きくすれば、長くその火は燃え続ける。
CIAO